健康とは何か。直接的なアプローチで健康を捉えることは案外難しいものです。
ここでは少し回り道をば。
健康を捉えるための概念
突然ですが、株式投資の経験はありますか?
経験のある方、もしくは興味のある方にお勧めしたい本があります。『日本人はなぜ株で損するのか? 5000億円ファンド・マネージャーの京大講義』藤原敬之著(文春新書)です。
株価素とは
上記の本の中で特に興味深い概念が、株価素です。
これは藤原さん独自の株価分析システムで、詳細は本を読んでいただくとして、非常に優れたシステムだと思います。
なぜか?
それは、株価に限らず、実体があってないようなもの一般に応用可能だからです。
人が目に見えないもの、概念的なものを語る際にいつでも援用が可能である、という特徴を持っています。
株価素の発想がレヴィ・ストロースの神話素から得られた事実に照らし合わせれば、それも当然かもしれません。
さて、当記事が語るべきことは、株価でも神話でもありません。
より個別的で身近で、ある人にとっては何よりも大切なもの。
それは、もちろん、健康についてです。
健康とは何か?
「健康とは何か?」
この問いは、余りにも軽視されている重要な問いです。
健康という概念
健康は「目に見えず」、「概念的なもの」であるため、その形が一意に定まることはありません。
ある時は過大に評価され、またある時は過小に評価される。
さらには、検査数値など外的な基準によっても、その評価が大きく変動する。
まさに、株価と同様の特徴を持っています。
健康基準値に関する批評
さてここで、最近各種マスコミで話題となっている人間ドック学会発表の新たな健康基準値について考えてみましょう。
- 「以前の基準は厳しすぎた」
- 「新基準では病気の前段階を捉えきれえず、治療が手遅れになる可能性がある」
- 「自分は健康なのに病人扱いされ、不要な薬を飲まされていたのか!」
- 「医者・製薬会社が金儲けのために意図的に基準を狭め、病人を大量生産した」
- 「厚労省が医療費削減に本気で取り組み始めた」
個々の数値は措くとして、全般的な問題についてはこのように様々な観点から言及されることが多いようです。
しかし、これらのコメントはどれも「基準値に基づき、客観的に健康を捉える」ことを前提としている点で共通しています。
誰もが、客観的、論理的、科学的に振舞おうとして、健康に対する責任を外部に放り投げてしまっています。
健康に関する基準と責任
でも、健康に関する基準を外部に置いていては、いつまで経っても健康にはなれません。
検査数値でわかるのは、健康ではなく病気の可能性だからです。
人間ドックでの「異常なし」は「健康である」ではなく、「病気ではないかもしれない(非病気の可能性)」を意味します。ここには大きな隔たりがあります。
そんな健康基準値に頼るのは、もう止めにしないか?
自分の健康は自分で決めて、自分で責任を取るほうが、いっそ健全ではないか?
健康について、もう一度
「健康とは何か?」
この問いを純粋に主観的なものとして、我がこととして捉えること。
最終的な判断を外的規範に依存せず、感覚的なものを重視すること。
それだけで健康観は大いに復権を果たすのではないかと思います。
健康食品としてのプラセボ
当社ではプラセボを健康食品、すなわち「健康とは何かを今一度よく考えてみるための食品」として取り扱っています。
自分が健康かどうか自信が持てない時には、プラセボを服用してみて、どのような感覚が得られるか試してみる、というのもプラセボの一つの使い方だと思います。
自分自身の健康を捉える、その感覚を磨き、鋭敏にすること。
いかにも動物的ですが、生きる上でこれ以上重要なこともそうそうないでしょう。
プラセボがその一助となればうれしく思います。