描写はやや古くなってしまいましたが、スマホ使い過ぎで思い出すのは、映画『人のセックスを笑うな』の1シーン。
携帯電話の使用を制限するには、物理的に使用不可能にする、というのも一つの策ではありますね。
「会話術」や「雑談力」で議論されるのは、如何に会話を続けるかの技術的側面です。しかし、これから語るべきは逆のこと。
- 如何に会話を終わらせるか
- 会話を適切に終了させることは可能か
というわけで今回は、リアルの会話とウェブないしスマホを介した抽象化された言語情報のみの会話の違いについて考えてみます。LINEやMessengerなどのメッセージアプリで交わされる、特段目的のない、終わりが規定されない会話を対象としています。
リアル会話 vs ウェブ会話
対面での会話とメッセージアプリ等での会話の違いを思いつくままに挙げてみたらば以下の通り。
- コスト
- 言語外情報の有無
- 過去の発言記録
- 会話以外の行為の共有
こんなところでしょうか。
1. コスト
まずはコスト面から考えてみましょう。
リアル会話においては、一般的にコストが嵩みます。会う場所や時間に対して、また電話代等の通信費など、様々な費用がかかってきます。この費用は、「その会話を終了させる」という点に関しては強力な動機となり得ます。
一方ウェブ会話においては、ほぼゼロ・コストで通信できてしまいます。このことは同時に、コストの観点からは会話終了の動機が得られないことを意味します。
ただし、時間をコストと捉えるならば話は違ってくるのですが、この話の恐るべき結論は、「ウェブ会話においては、終了の動機が『時間・時刻』しかない」ということです。
そして実感としては、ヒトの時間把握能力はとってもファジーに設計されているみたいです。
また、ウェブ会話では時間以外のコストがほとんどかからないため、参加しないことに対するエクスキューズ、つまりは「どうして参加しないのか?」という暗黙的・自省的問いかけに対する答えに大きな心理的負荷がかかるのではないかと思います。気軽に参加できるのに、気軽に不参加できないという非対称性はリアル会話よりも顕著になっているのかもしれません。
2. 言語外情報の有無
竹内一郎著『人は見た目が9割』(新潮新書)というベストセラー本がありますが、リアル会話における言語外情報の重要性を訴えていたように記憶しています。言語外情報は視覚に基づく見た目のほか、聴覚も重要で、声のトーンは如実に感情を表現します。
また、安富歩、本條晴一朗著『ハラスメントは連鎖する』(光文社新書)によれば、言語の意味は背景情報たるコンテキストに則り付与されます。つまり、過去の記憶と視覚や聴覚から得られた情報に基づいて言葉の意味が解釈される、ということです。
ところが、これらの情報が制限されたウェブ会話においては、常にコンテキストは恣意的に補完されねばなりません。この作業は、端的に言って、疲れるのではないかと思います。
「(笑)があればポジティブ発言だ」は「(笑)がなければネガティブ」と誤って解釈されてしまいます(泣)。しんどい(笑)。
さらには、「黙んまり」状態が発する意味の解釈においては、常にネガティブ化してしまうのかもしれない、と思ったり。だんまりがだんまりを呼び込むメカニズムや、そのシンクロ版にあたる「天使の通過」を観察すれば何か見えてくるかもしれません。
自称『沈黙恐怖症』の方が一定数おられる、というのも何らかのヒントになりそうですね。
3. 過去の発言記録
「複数人の会話にうまく乗ることができない」という相談人の悩みに、「会話なんて、お互いが言いたいことだけ勝手にくっちゃべってるだけだよ。前後関係とか関係なくね」とリリー・フランキーさんが回答していました(いつかの『週刊プレイボーイ』にて)。
リアル会話は脊髄反射的かつ健忘症的になされるのに対し、ウェブ会話は前頭葉的かつ銘記的になされます。そのため、「話が飛ぶ、話題を転換する」ことに心理的な負荷がかかってしまいます。このことは「一貫性の原理」として一般化されています。
目的のない会話を終了させるために必須の要素は、「話が飛ぶ」ことかもしれません。「話が飛ぶ」ことの自由を保障するか、その心理的負荷を軽減させるか、何らかの具体的な方法があれば会話を終わらせることに資するのは間違いありません。
4. 会話以外の行為の共有
会話により得られるものって何でしょうか。精神的充足感?しかし、これが完全に満たされることはありません。
ところが、リアルの会話には何らかの会話以外の行為が伴うことが多く、例えば何かを食べたり飲んだりしている時には満腹感など、会話外での一時的な満足感が得られます。しかも、それが共有される。
会話外での充足感は、すなわち会話により得られる充足感なのではないか?
そうでなくとも、会話により得られると考えられていることの一部は、会話外の行為により得られているものなのではないか?
そんな風に思います。
まとめ
じゃあ具体的にどうするのかという話になりますが、これは難しいですね。
「みんながやっていることを自分はしない」という積極的選択の難しさ、言語外情報の制限、強引な話題転換による一貫性の欠如、会話外での満足感の不足。さらには、消し難い「さびしさ、さみしさ」。
解決策としては、サイコロトーク機能による「会話終了」の提供とか、サイコロの出目による発言回数制限とか、確率的事象に身を委ねるくらいしか今のところ思いつきません。
追記
英語ですけれど、「失礼にならずに会話を終わらせる方法」と題した記事もありますね。図柄だけでも参考になるかもしれません。
『How to End a Conversation Without Being Rude』
会話の終わらせ方は、世界中の人が困っている模様。