注意欠陥・多動性障害、あるいは注意欠如・多動性障害と訳されるADHD。
- Attention:注意
- Deficit:欠陥・欠如
- Hyperactivity:多動性
- Disorder:障害
英語の直訳&頭文字を合わせてADHDと呼ぶ感じが、輸入品感を醸しています。
さて「ADHD」でGoogle検索してみると、「大人のADHD」や「成人(18歳以上)用」という記載が目につきます。
子どもよりも、大人に対しての情報提供がメインみたいです。
なぜ?
ネット上の医療情報
我々が生活上目にする情報の多くは、誰かがコストを掛けてわたしに・あなたに伝えようとしたものです。
インターネット上で提供される医療情報の大半も、ある目的のために、人・時間・金といった多大なコストをかけて作成され私たちに届けられています。
その目的は?
それは、お金が生じる「薬物治療」に結びつけること。
現代に生きる私たちは生活の上で生じた不快の原因に関してオンライン情報で見当をつけ、医療措置が必要であれば自らオフラインの医療機関へ足を運びます。
「なんだかじっとしていられない」等の悩みが「ADHD」という病気に由来するものだと分かれば、それを治療する医薬品を求めればいいという訳です。
チャイルドADHD?
ただ、かつては「落ち着きの無さ」や「だらしなさ」といった性格的な特徴と捉えられていたものが、脳内の情報伝達物質異常を原因とする病的な状態、すなわち「ADHD」だと解釈されるに至り、薬物治療の対象とされたという経緯があります。
つまりADHDに対する薬物治療とは脳内の情報伝達物質を、「正常化」というワーディングでグシャグシャとイジることを指すわけで、成長途上にある子供の脳に対しては外部から積極的に操作するべきではないだろうと倫理的には思われます。
インターネット上での情報提供から、金銭的な利得のある薬物治療へ繋げにくい。
そのことは、コスト負担を回避する大きな理由となるでしょう。
アダルトADHD?
コドモはだめでも、オトナならいける。
- 集中力を欠く
- 片付けが出来ない
- 計画性が無い
自らの性格だと諦めていた数々の性質が「ADHD」の一言で説明されてしまう時、それが解消した明るい未来を提示されれば多くの人が「ADHD治療」にすがりたいと思うかもしれません。
もちろん大人なので、自己の責任において治療を選択することを誰かから非難されたり咎められたりする謂われはありません。
悩みがあり、解決策がある。
多くの場合、他者から提供される解決策は金銭と引き換えで、医薬品によるADHD治療もその通りなのですが、悩み解消の価値と比較して有用だと思えば選べばいいと。それだけの話になります。
じゃあ、その選択を後押しする情報提供をして…っと。製薬会社にとって有利となる選択の結果、大人向けのADHD情報提供が優位になると解釈ができるわけです。
利益が行動原理となってしまう企業の姿勢に嫌気がさすこともあるかもしれませんが、利益の追求という目的があってこそ無料で閲覧できるウェブサイトがよくよく練られるという仕組みが備わっていて、様々な場面でその恩恵に我々は浴しているわけでもありまして。
医薬品をもっと売るために啓蒙的に病気や理想のオトナ像をばらまくのも、一概には否定できないな、と。
当プラセブログを運営するプラセボ製薬では、基本的には、医薬品の使用を抑制するような、外部の何かすがるのではなく自らの内にあるチカラを信じたくなるような情報を提供したいと考えていますが、まぁそれはそれとして。
うちの子、ADHDかも?
- 不注意
- 多動性
- 衝動性
上記を基本要素とするADHD様症状・状態を心配して医療機関を受診するお父さん・お母さんが増えているそうです。
度を越したお転婆とかやんちゃとか、両親の脳内で想い描かれた理想の子ども像とは異なる我が子の有り様に、将来の不安まで重なって治療せねばと躍起になる。
でも、すぐにはお薬による治療は始まりません。
上記のように倫理的にためらわれますし、バッチリ効果はてきめんだ!なわけでもないためです。
「折り合いを付ける」
生きる上で誰もが悩む自分と、他者との人間関係が主になる外の世界との折り合いを上手に付けることが治療の目的とされ、症状自体をなくしてしまえ!みたいな野蛮な統制・管理主義は採られないと。
治療を望むのがお子さんではなく親御さんの場合、「生きづらさ」を感じているのは親の方だったりして、症状さえなくなれば…と短絡思考に陥ることもあるようですが、治療目的の主体はお子さんの方にあることを常に念頭に置いておかなければなりません。
「大丈夫なのだ、うちの子は」
そういった無根拠の信頼こそが活きてくる場面もあるように思われます。世界にはプラセボ効果なるものだってあるのだし、信用には効用もあるはずだと。
カラダが原因?
アダルト向けADHD治療において語られるストーリーは、「脳内の情報伝達物質の乱れ」を原因としていますが、案外こうしたものとは別口でADHD様症状が出てくることもあるようです。
ある種、言い様のない不快感。
コトバでは表せないこの身体感覚を持て余し、過剰に見える行動で発散し解消する。
どうにもこうにも止まらない、湧き上がるこの身体感覚を理性的に捉えることができずに、自分でも、親にも言葉では説明できない何かを解消したくて衝動的な行動を起こす。
そんな例が有るようです。
案外と私たちは、私たち自身の身体について無知なので、説明不可能な身体感覚のやり場を多動などに求めてしまうことがあります。
鼻づまりが原因?
また自分自身でも気付かないような「隠れ鼻づまり」状態が、言いしれぬ不快感を湧き起こすことも。
この本には「ずっとADHDだと思っていた」お子さんが、鼻づまりを解消する手術によって生活改善に成功した事例が紹介されています。
鼻づまりに伴う脳の酸素不足が注意力の欠如させているなんて、子供には解らないし、こうした事例を知らなきゃ親にだってわかりません。
多動や衝動的な行動の裏側には、本人にも説明ができない何らかの窮屈さが潜んでいるかもしれないという発想は、脳内物質のみに原因を帰するADHD観を変えてくれるように思われます。
精神神経科や心療内科に向かいかけていた足が、当書籍を読んで耳鼻咽喉科へ向かうようになるかも?
得てして、原因は不明
私たちが住むこの世界は、はっきりと原因と結果を結びつけることのできない、因果論で説明できない事象に満ち満ちています。
私たち自身の身体でさえ、現代科学では捉え切れない、とんでもない複雑さを持っています。
でも、だからこそ、生きていること自体が奇跡的で、根拠なんてなくたって信頼のおけるものではないかと思います。
より快適に生きることを目指すなら、今ある生きにくさを解消したいと願うなら、自らの内に備わった大丈夫な感じを基礎としてみることをオススメします。
あっという間の解決策という形で答えが外部にあるという考えを捨て、内的な何かを信じてみること。その上で、現実をじっくりと観察してみること。
プラセボ効果について考えることも、その一助となるやもしれません。