真実と虚偽のプラセボ効果(虚薬効果)

おかしい。どう考えてもおかしい。絶対におかしい。

なぜプラセボは偽薬なのだろう?

虚薬ではなく。

言葉の対称性

言葉の性質上、あるいは概念を活用する上での便宜上、ある言葉には対義語と呼ばれるペアの言葉が存在します。

あいまいな対義語

  • 上-下
  • 前-後
  • 暑い-寒い
  • 熱い-冷たい

こんな風に、日常的によく使う言葉には反対の言葉がペアで存在しています。

ただ、ここで注目したいのは「一方の否定が他方と一致するか?」という点です。

例えば、「暑い」の否定である「暑くない」が、イコール「寒い」となるでしょうか?

「暑くない」という言葉は、なんというか「ちょうどいい」みたいなニュアンスをも含んでいますので、「暑くない」が一概に「寒い」であるとは言えなさそうです。

実は、ここに挙げた言葉を含む多くの反対語ペアが「一方の否定が他方と一致しない」という特徴を持っています。そもそもの言葉自体があいまいで、ペアを組んでも何がしかの「中くらい」的なものは捉え切れないためです。

ただ、それが忌むべき事かと言えばそうではなく、この曖昧さこそが言葉の体系を豊かに、便利にしてくれているといえるでしょう。

厳格な対義語

一方、そうした曖昧さを廃した厳格な対義語のペアが存在しています。例えば、

真-偽

真でないものは偽であり、偽でないものは真であるとすれば「一方の否定が他方と一致する」ことから、上に挙げたような曖昧な対義語とは異なり、真でもなく偽でもない中間的なものを一切含まない厳格さを有することになります。

こうした考え方は数理論理学、特に「0」と「1」で全てを計算するコンピューターを扱う上で非常に重要な取り決めとなっています。詳しくは「真理値」、「ブール値」、「ブーリアン」などでご検索のこと。

真と偽と虚と実と

真と偽の厳格な対応はさておき。

日本語の体系には「真-偽」に割って入る対義語のペアが存在しています。「実-虚」です。

「真ー偽」の対応関係に「実ー虚」を混ぜると、新たな対応関係を見出すことができます。

「真実-虚偽」の対応関係は「真-偽」とほとんど同じでしょうが、同義語反復的な用法によって、より強く意味の対照関係が表現されています。

斜め掛けの対応

ここで面白いのは、対応関係が斜め掛けになっている点でしょうか。

「真ー偽」の対応関係。

「実-虚」は逆さまになり、「虚-実」の対応関係。

日本語の用例を思い返してみても、「真偽を明らかに」や「虚実綯い交ぜ」、あるいは「真実の追及」や「虚偽の報告」などとは言うものの、「偽真」とか「実虚」、あるいは「実真」や「偽虚」など位置関係のルールを破るものは言うに及ばず、「真虚」や「実偽」という横のペアを用いた言葉すらほとんど(まったく?)使われません。

「真」と「偽」と「虚」と「実」には、意味の対称性にもその登場順序にも縛りがあるようです。

プラセボ効果は偽薬か?

さて、ようやく本題です。実はプラセボ効果関連の言葉においては上記のような対応関係は捨て去られています。

「真」と「虚」が使われることはありませんが、以下のような対応関係があります。

  • 実薬:薬理学的効果を有する成分を含む医薬品
  • 偽薬:薬理学的効果を有する成分を含まない医薬品(もどき)

これまで確認してきたように、「実」は「真」や「虚」と手を結び、「偽」もまた「真」や「虚」と手を結ぶことが通例でした。しかしながらここで「実」は「偽」とペアを組んでいます。

冒頭で「おかしい」と述べたのは、この対称性の破れのこと。

なんだかムズムズと気になってしまうこの対称性の破れは「実薬」を維持するなら「虚薬」を、「偽薬」を維持するなら「真薬」を導入して解消すべきな気がします。

歴史的背景

すこし脱線しますが、残念ながら「実薬」がいつごろからある言葉なのかわかりません。

一方「偽薬」については、遅くとも江戸時代には存在していました。

歴史をさかのぼり、語源を辿れば何がしか見えてくるものがあるやもしれません。脱線終わり。

虚薬と真薬

話を戻しまして、「虚薬」と「真薬」のどちらを採用するか問題について少々。

これは個人的な語感に基づく主観的なものかもしれませんが、「真」は「実」と比較すればより抽象的な概念と言いますか、形而上的な概念であるように思われます。「実」はそれこそ具体的な「実(身)」を伴うものとして存在している(存在してよい)感じがあります。

つまり、いま私たちが「実薬」と呼んでいるものから意味を抽象し、改めて名づけるとしても「真薬」よりは、やはり「実薬」がふさわしいのではないでしょうか。

一方、「虚」も「偽」と比較すれば些か抽象的で形而上的なものであって、「偽薬」はやはり「偽薬」であるべきな気がしてきます(この辺りの主観的感覚から「慣れ」を排除するのは不可能で、ただただ保守的な選択をしがちな脳がそうさせるのかもしれませんが…)。

とすると、ここまで述べてきたことはただの言葉遊びで、やっぱり「実薬」と「偽薬」でまあるく収まってめでたしめでたし…いや、ちょっと待てよ。

もっと虚を!

ここで唐突に数学の世界を覗いてみますと、虚実の概念は「実数」と「虚数」として具現化されています。「実数」は1とか-2とかπとかeとか0とか、いわゆるフツーの数のこと。一方「虚数」とは、2乗してマイナスになる不思議な数です。

この「虚数」は数学者オイラーによって虚数単位iを利用し複素数の虚部として表現され、さらには複素平面上の点として実体を与えられたことで現実的な問題解決に大いに活かされています。現代社会は「虚数」なしには立ち行かないのです。

さてこのiですが、「imaginary(想像上の)」という単語の頭文字から取られています。想像上の数だから「虚数」。

ここで再度「偽薬」というか「プラセボ効果」に着目してみると、それは想像上の効果と言えなくもない…ような。

つまり、「偽薬」によって起こり得る効果は「虚薬効果」なのではないだろうか…?

実のところ、偽薬はプラセボと言えるでしょうが、逆にプラセボが偽薬かと言えばそうではありません。

でもここで見た通り、プラセボは「虚薬」なのかもしれません。想像上の薬としての「虚薬」。これならば「実薬」との文字上の対称性も維持され、意味的にもなんとか納得できるはず。

それよりなにより、プラセボ効果に関して「虚」として表現することで数学的な取り扱いの端緒が開けるかもしれません。しかしながら、数学的な事柄に関しては本記事の領分を超えるため続きは別枠で。

「虚薬」と呼んでよ、プラセボ!

「偽」の対義語は「真」ではあるのですが、真理値を表す二値の関係性よりはむしろ、日本人にとって馴染み深い「ホンモノ」と「ニセモノ」という和語に引っ張られて対応関係があやふやになっているのかもしれない…と思ったり。

プラセボ効果という新しい概念が導入されるずっと以前からニセモノの薬はあった訳で、それは実に「偽」であった訳なので(洒落ではなく)、「偽薬」が定着しているという現状も宜なるかなと思われます。

ただ、プラセボ効果と呼ばれる不思議な現象の存在を前提した上で「プラセボ」を実直に見据えてみたらば、それは単なる「ニセモノ」なんかではありません。想像上の、それでいて有用なものである可能性を秘めた、すなわちこれ「虚薬」なのです。「虚数」と同じく。