プラセボ効果の説明として「思い込みの効果だ」とよく言われるけれど、なんとなく言い訳めいていて受け容れる気になれない。
もっと実体的な何かとして記述できればいいのに。
そんなあなたに、「想像上の効果」としての「虚薬効果」を贈りたい。
偽と虚
プラセボ効果は通例「偽薬効果」と訳され、広く人口に膾炙しています。
ただ、文字の対称性およびその意味、また数学的概念との擦り合わせを考慮すれば「虚薬効果」もありではないかと考えます。
ここでは数の概念がどのように拡張されてきたかを眺め、それがどのようにプラセボ効果研究へ活かされうるか考えてみましょう。
数の概念
数学の歴史を扱う本、あるいはもっと一般に数学エッセイなどを読んでみれば、必ず出くわすのが「数の拡張」の歴史的記述です。
1、2、3と続く「自然数」に始まり、その比で表される「有理数」、有理数ではない「無理数」。
これらの数が受け入れられるのにも様々なドラマがあったようですが、より興味深いのは以下の例。
零(ゼロ)の概念
今では0(ゼロ)を数として扱うことに何のためらいもなく、0という数字に出くわしても単なる数字の一つにしか見えませんが、過去を振り返れば劇的なドラマがあったようです。
『異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)はそうした数学の歴史を描く名著。
0の恐ろしさを実感するには、以下の簡単な計算式で十分でしょう。
$$0\div0=?$$
現代の数学はこの「0の除算」を手懐けるためにある約束事をしています。
同様に、以下の単純な数式も過去の数学者たちを悩ませ続けていました。
$$0^0=?$$
気になる方は下記の記事をご参照のこと。
記事を一読すれば、かつて大いに恐れられていた理由がよくわかるのではないでしょうか。
ただ受け容れるのにものすごく時間がかかるけれど、受け容れてしまえば広く、日常的に活用されるというのは数の概念が拡張されてゆく歴史の中で幾度となく繰り返されます。
負の概念
今では「マイナス金利」など日常的に使われる負の数、マイナスの数もまた、「バカげた数」として受け入れを拒否され続けた歴史があります。
『どんな数にも物語がある 驚きと発見の数学』(SBクリエイティブ)によれば、古代のアジアにおいて計算の道具として負の数が用いられ、その後インドの数学者がマイナスの数を「借金」として具体的な実在の概念と結びつけたことが記されています。ちなみに、ゼロの概念もインド発祥。
一方、ヨーロッパ圏ではその導入に慎重な姿勢が続き、一部では18世紀になっても負の数の受け入れは議論の的となっていたそうです。
ただし、1685年には「数直線」の概念が書誌上の歴史に登場し、負の数を視覚的に解釈する道具を得たことで納得の上、受け容れる素地が出来上がったようです。
虚数の概念
負の数に関して議論が続く最中に、さらなる不可思議な数の概念が登場します。
$$x^2=-1$$
2次以上の方程式を解く際に現れることのある、この等式を満たすxはどうにも存在しない数のように思われました。
負の数の平方根についてはじめて考えた人物が、イタリア人数学者のジェロラモ・カルダーノ、1545年のことだった。それについて考えるのは「精神的な拷問だ」と、カルダーノは語った。
『どんな数にも物語がある 驚きと発見の数学』(200ページ)
1637年にはルネ・デカルトが負の数の平方根をimaginary(想像上の)と表現し、その後レオンハルト・オイラーがimaginaryの頭文字iを使って以下のように表しました。
$$i=\sqrt[]{-1}$$
もちろんその数字上の表現を得ただけでは容易に納得されない歴史は繰り返され、上記の「数直線」という一次元(線)の概念に垂直に交わる新たな直線を加え「複素平面」という二次元(面)の概念に拡張し視覚的に落とし込むことでようやく受け容れられることとなりました。
今や虚数は電磁気学や量子力学において、必要不可欠な概念となっています。
四元数、八元数
『どんな数にも物語がある 驚きと発見の数学』では虚数のさらなる応用として四元数や八元数が登場し、三次元(立体)への拡張が施さた例が紹介されています。
そんなの日常生活には関係ない…と思いがちですが、さにあらず。人工衛星が三次元空間上できっちり回転するには四元数による計算がもっとも簡単だったり、ゲームやCG映画などでキャラクターが縦横無尽に飛び回り跳ねまわるのにも四元数が用いられています。
今や誰も、「虚」なるものが便宜性を超えて本質的な何かを表していると考えることを「馬鹿げている」とか「無意味である」などと批判できなくなりました。
プラセボ効果は「偽」か「無」か「虚」か?
プラセボは通常「偽薬」と訳されています。また、プラセボ(効果)を「無」であるとする主張があります。プラセボはゼロだと。
「無」なのか?
「無」を扱う、その名もずばり『「無」の科学』(SBクリエイティブ)でも一節を割いてプラセボが扱われています。
有効な成分を一切含まない、薬理学的な「無」。それがプラセボ(偽薬)だ。「無」から「有」が生まれるはずがない。なのに、「プラセボ効果」なる不思議な現象が広く知られている…。
この不思議さを解消する方法は少なくとも2つあります。
- プラセボ効果の存在を否定すること。
- プラセボが「無」であるとした仮定が誤りであったとして否定すること。
現代社会はプラセボ効果が存在することを広く合意しています。でなければ、厚労省や米国FDAが製薬会社に課す厳しい臨床試験はただの企業イジメになってしまいます。
したがって、プラセボが「無」であるとした仮定が誤りであったとして否定するべきではないか?
しかし、「無」でないとすれば一体何なのか?
「虚」なのか?
数学の歴史を鑑みれば、プラセボが「無」でないとすれば、それは「虚」かもしれません。
$$x^2=-1$$
この式を成立させるxについて新たな数を発明する必要があったことを思い出しましょう。
複素平面という視覚的な道具の助けを借りずに想像するのは難しかったことも。現代のプラセボ効果もまた、この状況に近いのではないでしょうか?
そこに何かあるのだけれど、何があるのかはイマイチよく分からない。でも「無(=0)」じゃない。
とすれば「虚」なる概念を導入し、その作用が「実」に影響した結果が「プラセボ効果」だと考えてみることに妥当性はあるのではないかと。
そしてまた数学の歴史を振り返るならば、この「虚薬効果」的概念を広めるために必要なのはある種の数学的裏付けと視覚的表現に他ならないのでしょう。
それはきっと、近い将来「成る」ものだと信じています。
数学研究者、あるいは市井の数学好きへ
現在、多くの製薬企業では新規医薬品が臨床試験に通りづらくなったと悩んでいます。必死に研究・開発をすすめた医薬品の効果が、プラセボ効果を越えられないためです。
この対策の一つとして、「プラセボ効果を人為的に制御する」ことが考えられています。
もし仮にプラセボ効果の出現確率や出現の条件を数学的に表現することが出来たなら、新規医薬品の開発は飛躍的にコストダウンすることでしょう。独占できれば、医薬品業界を牛耳ることだって夢じゃありません。あるいはノーベル賞すら手に入るかもしれません。
数学がカネになる分野は多々ありますが、巨大な医薬品業界もまたその範疇に入るとすれば、プラセボ効果の数学的モデル化に取り組むインセンティブとしては十分ではないでしょうか。
また成果を直接的に社会へ還元できるのならば、研究費の申請でウンウンと頭を悩ませる必要もありません。
ぜひご検討を。