先端恐怖症でなくたって、注射針を見るとゾクッとくるものがありますね…。
注射という言葉そのものが痛みを連想させ、その恐怖感が実際の痛みを増幅させるとしたら、残念ながらもうどこにも逃げ場はないのかも。
いや、もしかすると注射の痛みを軽減し、ショックを和らげるコツはプラセボ効果研究から生まれるかもしれません。
痛みとプラセボ効果
プラセボ効果の研究において、主観的な痛みがテーマとなることがよくあります。
「痛い」には程度があります。
- 痛くはない
- ちょっと痛い
- まあまあ痛い
- けっこう痛い
- かなり痛い
- めっちゃ痛い!
- あだだだだーいっ!!!
表現は様々ながら、その痛みの尺度を各自の実感として持っているため、何らかのプラセボ的な処置によって痛みの感じ方が変わった時に、それを上手く評価できるからです。
主観的とはいえ明確な基準に沿って評価できる「痛み」はまた、それを避けること、抑えることが一つの価値になりますので、研究のし甲斐もあろうというもの。
プラセボ効果を研究する科学者は、誰かに痛みを与えたくて今日もどこかでウズウズしています。
プラセボ効果の謎
プラセボ効果における最近の研究は、「プラセボだと知っていても、効果はあるか?」という問いに回答しようと試みています。
そんな常識が、否定されつつあるためです。
最新の研究では
『Conditioned placebo analgesia persists when subjects know they are receiving a placebo.』と題された研究において、人は学習によって、たとえプラセボによる処置でも、その効果を持続させる場合があることが示されています。
青く着色されたワセリンを鎮痛剤と称して腕に塗っておけば、その後の熱感刺激が緩和される。
一度そうした経験をし、次も同じことが起こるだろうと期待を抱かせることが出来れば、たとえそれがウソの鎮痛剤であったと知っても、効果が持続する。
ここには、注射の痛みをプラセボ効果によって軽減するアイデアの源泉があるように思われます。
逆もまた然り
しかし残念なことにプラセボ効果の逆の効果、すなわちノセボ効果によって痛みが増強される可能性をも示しているように思われます。
例えば、エタノールを染み込ませた消毒用の綿でこするという行為。
この行為自体や、エタノールの匂いが不安感と相俟って恐怖心を煽り、実際の痛みを何倍にも増幅させる…。
プラセボ効果で痛みを減弱させることが出来るのならば、ノセボ効果で痛みを増強させることもできると考えなければなりません。
子どもが予防接種で泣き叫んじゃって…という話なら、もしかするとその恐怖との戦いが子供の精神的な成長を促すというストーリーを(無理繰りにでも)紡ぎだすことができるかもしれませんが、脊髄注射や筋肉注射を大人になって受けるとしたらできるだけ痛くない方法を求めたいもの。
ノセボ効果で痛みが増強!なんて絶対に避けたいし、あわよくばプラセボ効果で痛みが軽減すれば願ったり叶ったりで言うことはありません。
痛みを無くす作法
痛みの程度は注射を行う医師、看護師の技量によるものもありますし、薬剤の種類によっても変わってくるそうですが、「皮膚にハリをぶっ刺す」という行為そのものが痛いので、これを抑える方法がいくつか開発されています。
- 刺入部を強く圧迫しておく
- 刺入部を氷冷しておく
- 局所麻酔剤を貼付してもらう
- 深呼吸するなど、気を紛らす
痛みは絶対的なものではなく相対的な感覚であり、また思い込みのようなものにも左右されますので、「コレだ!」と思い込める何かを見つけて、それを繰り返すことで学習するのがいいのかもしれません。
上記論文の成果を鑑みれば、麻酔に関してはリドカインなどを含まないプラセボ貼付剤でも行けそうな気がしますがどうなんでしょうか。
痛み、それは生きている証
死んでしまえば、「痛み」を感じることさえできません。
「痛み」ほど、自らが世界に存在し、今ここに生きていることをヒシヒシと思い知らせてくれる感覚はないでしょう。
Majiでkoiする5秒前
避けるべき対象から、向き合うべき対象へ。
そうした発想の転換により痛覚とのお付き合いを深め、「痛み」とは何かを知ること。それが自分自身、ひいては人間への理解をより一層深めてくれるかもしれません。
「自分自身の感覚に自信を持つ」というプラセボ製薬が推奨する健康観のあり方もまた、感覚との付き合いが基礎になっています。
プラセボ効果の研究者は、誰かに痛みを与えたくてウズウズしていまるのと同じだけ、痛みのような知覚を生み出す生命の神秘に近づきたいと今日もどこかで自らを痛めつけてほしい…もとい、自らを鼓舞し続けています。
マゾ…じゃない、マジな話。