プラセボ効果と「平均への回帰」への還元論

『プラセボ効果は思っているよりも弱い – GIGAZINE』と言う記事を拝見しまして。

お勉強がてらソースに当たって見ました。

タイトルの日本語訳は「プラセボ効果は弱い:効果のない治療が奏功しているように見える主な理由は平均への回帰」。

平均への回帰

今回主題となるテーマは、「平均への回帰」と呼ばれる統計学的な現象。

人の体調や病状は日ごとに変化して良くなったり悪くなったりするものだけれど、めっちゃ気分が優れていたり、すんごく調子が悪かったりした「特別な一日」の次の日には「比較的通常営業に近い一日」がやってくる可能性が高いよねーっていうお話です。

「The get-better-anyway effect(いずれにせよ良くなる効果)」との俗称も。

医療行為にはつきもの

特に医療に関して、通常は「治療」や「施療」と呼ばれる何らかの行為に掛かりたいと思うのは「特別悪いとき」である場合が多く、何をするにせよ、あるいはしないにせよ、次の日には状態が改善している可能性が高いという訳です。

病状には波があって、また自然治癒力やホメオスタシスが備わっている我々の身体には、そもそも「良くなろう」という生得的な傾向があります。

治療家は自身の力や適切な医薬品を選択する知恵を誇示したいという潜在的な欲求を持っていますので改善の原因をそうした行為に求めたがりますが、なんのことはない、何にもしなくたってカラダは勝手に良くなっていたのかもしれないのです。

結果から原因を推定するのは容易ではない

医療に限らず、どんな事象においても、結果から原因を推定するのは容易ではありません。

クスリの影響で良くなったのか、プラセボ効果が効いたのか、自然の成り行きだったのか、結果が出てからだと何が原因だったか確実に言い当てることはできません。

だから、後付けの理由で何とでも言えてしまいます。

株式アナリストなども、株価の急落などの結果が出てからそれらしき原因を後出しでやんややんやと言い出すだけで、それを継続的に事前予測することなんかできません。

というか、そもそも特定の原因がある結果を生み出す因果論で世界を捉えるという前提自体に無理があるのですが、ソースにあった格言一つ。

誰かに何かを理解させるのは難しい、そいつの給料がそれを理解しないことに依っている場合には。

いやむしろ深く理解しているからこそ、医者や薬剤師はあんまり薬を飲まないし、銀行員や証券マンが投資信託を買い漁る事もない。それでいて良心の呵責を感じていたりするのかもしれません。

イタコ芸?の話はやめておきましょう。

価値なきことかは

話を医療における「平均への回帰」に戻しますと、フランスの哲学者ヴォルテール氏の言葉としてこんな箴言も紹介されています。

医術の本質は患者を楽しませることにある、自然が病を治癒する間。

これは医術の価値を貶めるものでも、無価値であることを誹るものでもありません。

逆です。

近現代に生きる人間にとっての価値は、論理よりも感情面に宿っています。ただただ「待つ」ことの不安を癒してくれるなら、「何もしていない」ことへの焦燥を和らげてくれるなら、そこにはちゃんと価値があります。

科学的な意味では実質的に治癒に貢献しないとしても、価値なきものでは全くありません。

人間は未だ来ぬ少し先の未来を見据えつつ妄想しつつ生きるおかしな動物です。その未来の形を、色を、より良きものに換えてくれるのなら、それは「今」の我々にとって価値あるモノだと言えるでしょう。

価値に値付けをする際に、色々な考え方があるのはまた別の話です。

プラセボの価値

偽薬や偽治療としてのプラセボにもまた、価値があります。

それは、「何もしない」をすることができると言う価値です。

「何もしない」は難しい

人間には不得意なことがいくつもあります。小鳥のようには空を飛べないし、鈴のようにはキレイな音も出せない。

さらに言えば、「何もしない」ことも不得意です。「待つ」とか「信じる」とか「愛する」とか。

否定形の定義を持つ(「○○をしない」ことが本来的な意味となる)ことばが古今東西ドラマや歌の主題となるのは、人間がそれらを得意としないためでしょう。

「何もしない」ではいられないのが我らホモ・サピエンスの宿命なのかも?

かの適当男、高田純次さんの言葉だったかと思いますが、

なぜ人は夜に眠るか知ってる?起きているとロクなことしないからだよ。

なんて話もありまして。

医療の歴史も

手塚治虫先生の『火の鳥』を読んでいる際にも思いましたが、人間、極まるとロクなことをしません。

ただ、目の前に困っている人や妖怪や宇宙人がいると「何もしない」ではいられないのもまた人間らしく。

医療の歴史とは、「何もしない」よりも「何かをする」方が良いとの前提に基づく試行錯誤の歴史であり、「何もしない」ことの不得手な私たちにとっては「何かをする」方が良いというのが信ずべき教義になっているようにも思われます。

がん手術に関する最近の論争もまた、「何かをする」ことの優位性が科学ではなく宗教だというお話なのですが、言及はこれくらいにして。

プラセボは「何もしない」を提供する

さて、有効成分や有効な処置を一切含まないプラセボ。

「偽薬」という字面の怪しさから、著しく評価の低いプラセボ。

でも、よくよく考えてみればこれは人間の不得意分野たる「何もしない」を明示的にすることができるという、ある種革命的なモノでありコトであると言えるでしょう。

プラセボ製薬が介護用偽薬としてプラセボ食品「プラセプラス」を販売しているように、介護の分野では特に有用なように思われます。

薬の飲みたがりや飲み過ぎに関して、ホンモノの薬を飲んでもらうことができない場合に、「ゼロを足す」すなわち「なにもしない」をしてもらうことのできるプラセボは、大変便利にお使いいただけます。

概念としてのプラセボ効果

プラセボ効果とは説明不可能性を肯定的に言い表した言葉・概念ですので、「平均への回帰」などによって説明がつき、説明可能な部分が増えることが、すなわちその効果範囲の縮小を意味します。

したがって、今後ますます説明可能部に侵食されてしまうことでしょう。

しかし「愛する」が「浮気しない」を意味する場合があるのと同様に、「説明できない」という否定形によって定義されるプラセボ効果は、論理的には無限大の範囲を有する可能性がありますので、弱くなったけど弱くないままあり続けるのかもしれません。

統計学の不都合

さて統計学は誰かに何かを納得してもらうためのツールです。医薬品や医療行為の効果もまた、統計学によって証明され、規制当局が納得しなければならないとされています。

さきほどプラセボ(偽薬)が革命的なモノだと述べましたが、実際、医薬品の効果の判定に科学的なお墨付きを与えたのはこの偽薬です。

ただ、不都合もいくつかありまして。

逆転の論理

実は統計学のそもそもの意義は、「効果がないことを証明できる」ことにありました。ニセ薬をニセ薬と正しく見抜くためです。

それを逆転させたのが、現在のプラセボ対照試験の論理です。つまり「効果がないことを証明でき」ない時には、それは「効果がある」ためだと考えようと言うのです。

ちょっと苦しいかな?、と思われませんでしょうか。ムリあるかもな、と。

因果論が前提

また、統計的データは人間の解釈を経て初めて意味を持ちます。

因果論の通用しない世界に原因と結果の理論を持ち込むのは人間です。確率論の世界、複雑系の世界を因果の法則で捉えたいという、これは本能に根ざすバイアスです。

先入観なく世界を見つめることは、もしかすると不可能なのかもしれません。

そもそも効果とは

因果論の強制適用とも話はリンクしますが、効果とは何か?という観点もまた、人間が勝手に持ち込まなければならないものです。

血圧を下げる薬が血圧を下げることを「効果」とするのか、はたまた血圧を下げる薬が血管系のイベント(破裂や梗塞などの事象)を抑制することを「効果」とするのか。

血圧が高い人ほど血管系イベントの発生頻度が高いという統計学的な証拠に基づき、降圧剤で血圧を下げれば血管系のイベントが抑制される「はず」だという理論は、前者の「効果」を後者の「効果」へと拡大解釈させるでしょう。

「効果」に関するエビデンスが描く美しい物語は永久不変の真理ではなく、ましてや救いでも。

上方硬直性

何らかの医療行為が功を奏したと思われた時、「治った」、「すごく治った」、「めちゃめちゃ治った!」といった段階的評価にほとんど意味はありません。

治っちゃった時には「もっと治る」ことができないため、医療行為の効果に関する評価はある程度のところで収まってしまいます。

プラセボ処置群と無処置群で差がないっていうのはこの辺りに問題があるのかもな、ぶつぶつ…というポジション・トークはさておき。

※上記ソースにおいては「真のプラセボ効果」なるものが想定され、それが一般に思われてるより弱いでっせと。実は「平均への回帰」の方が主ですよっては話なのですが、これは結局のところ説明不可能性(=プラセボ効果)が未だある宣言ともとれます…よね?

統計学は使いよう

人間は「何もしない」が不得意だと書きましたが、自分の都合の良いようにデータを取り扱うことには非常に長けています。自己正当化はお手の物。

敢えて、不都合なデータを捨てる。

それだけで、統計学の根幹をグワングワン揺るがすことができます。

メタ解析的な研究にあまり重きを置きたくないなと思われるのは、その元となる研究報告にバイアスがあるためです。

統計学的な言説はつまらない

最後は難癖みたいなものですが、特に医療関係においては統計的に正しいとされることがすごくつまらなかったりします。

プラセボ効果に見られるような劇的な要素が取り払われてしまうと。

医術の本質は患者を楽しませることにある、自然が病を治癒する間。

楽しませておくれよ、もっと!

人間はしぶとい

平均への回帰からずいぶん遠いところへ来てしまった感がありますが、結局はこう言えるのではないかと。

大丈夫だ、と。

志村けんさんの話ではなく、しぶとい人間のお話。

何だかんだ、生きることに関してはすごい力を秘めているのが人間だ、と。

調子の良い日ばかりは続かないけれど、悪い日ばかりが続くわけでもない。

そうじゃなきゃ、このリスクだらけの地球上で人類は600万年も生き延びられるはずがない。

個々に様々な問題はあるでしょうが、基本的には大丈夫なのだと思います。生きることに関しては。

平均回避願望

平均から抜きん出たいと思うのも人間なので、その辺りに人生の苦しみと楽しみが潜んでいそうな予感。

新たな健康観を

はてさてプラセボ製薬では、プラセボ的な健康観を提示したいと考えています。

上記のような「大丈夫。」を基礎とする健康観を。

「何もしないでも、大丈夫。」そう信じ込める健康観を。

科学や統計学に基づくエビデンスや宗教といった外的な何かを信じてみるのも一興ですが、まずは、あなた自身の内にあるものに自信を抱くことのできる健康観を。

無論、根拠などないおとぎ話の類ですが、それでも。