誰かの性格や言動をあげつらって批判するのは時間の無駄だ。
「キョロ充」と他人から呼ばれていようが本人が自覚していようが、他人があれやこれや言う必要はない。
しかし、どうしても「キョロ充」をやめたいと悩んでいるのなら、試して欲しいことがある。
今すぐ、やめろ。
それができないから悩んでんだろって?そんなあなたに、キョロ充をやめるための武器を授けたい。
キョロ充とは?
キョロ充とは何か?を知らない人をこの記事は対象としないのだけれど、説明の必要上書いておこう。
- リア充に憧れ、ぼっちを蔑む。
- リア充グループに属することを望み、ぼっちであると思われることを嫌う。
そんな人。
「金魚のフン」なんて素敵なコトバがあるように昔からそうした傾向を持つ人は存在していたのだけれど、キョロ充はその現代版。
「虎の威を借る狐」という諺はあるけれど、意地汚いキツネにさえなり切れない。
周囲の目に映る自分の姿が気になってキョロキョロと絶えず視線を動かし、常に盛り上がる「仲間」の内に居たいと願っている。
自分という存在に自信がなく、より確かそうに見えるイケてる他人と同じレベルの存在であることにアイデンティティを見出す。
リア充?、ぼっち?、知らんがな。という方は、すみませんが対象としていないのですごめんなさい。
キョロキョロ、キョロキョロ
「キョロ充」という言葉の語源は、教室や学食など大勢の人が集まる場面で「誰か知り合いがいないだろうか」ときょろきょろ辺りを見回すテンプレート化された行動にある。
もちろん本人が無意識に習慣化した行動だ。しかし、かなり広くそこかしこの大学構内で見られる行動となっている。
キョロ充たちの自信の無さと、ぼっちであると思われたくない一心がそのような行動に駆り立てる。
悩むキョロ充
自分自身がキョロ充であると考え、それをやめたいと悩む高校生。
また、個人の経験の差が高校時代までと比べ圧倒的に拡大する大学生のうちがキョロ充を意識する最盛期と言える。
理想の姿に憧れてリア充(だと思われる人)と会話しつつ、リア充になり切れない自分にいら立つ。
また、欲求不満の精神を安定させるために自分よりも下位の存在としてぼっちを蔑む。
いつしかそうした行動自体が目的化し、「必死になって他人を蔑む人」であることを周囲に悟られ、あとは…。
便所飯はぼっちにあらず
リア充みたいに大勢でご飯を食べたりできず、かといって独りでいるところを見られることを恐れるため、誰の目線からも隠れることのできるトイレの個室で昼食を済ませる「便所飯」が話題になったことがあって、これもキョロ充的行動。
ぼっちならぼっちだと思われることに屈辱的な想いを抱いていないので、人目に付くところで気楽に一人飯。
「一人飯=敗北」という価値観を、トイレに籠って排泄音を聞きながら守り通すのがキョロ充だ。それを、しかもほとんど葛藤なく行為できるという行動力を身に着ける。
社会人に見るキョロ充
これまで見てきたように、キョロ充は特徴的でテンプレート化されうるような画一的行動を有する人物性格像を表す言葉だと言える。
固定化された人間関係を有し、コミュニケーション能力の高低が顕著になる高校生から大学生がその主な構成要因だが、一部の社会人にもキョロ充的行動を採用する一群が存在するようだ。
特に「キョロ充OL」などと新たなテンプレートを生み出し、女子会や合コンに価値を見出しつつ、婚活に精をだし、結婚、出産後はママ友と呼ばれる保育園・幼稚園のママ友達の中でキョロ充的性質を発揮してしまう女性の存在が指摘されている。
ここまで来ると、社会的生物であるヒトの一部が進化の過程で身につけた基本的な性質の一つであるとも言えるだろう。
キョロ充をやめるには?
さて、もし貴方がキョロ充であることを自覚し、キョロ充をやめたいと心から願うならどうするのが良いだろうか?
キョロ充をやめるのは実は簡単…というか、選択肢としては二択しかないので、後はどちらを選ぶかが問題。
- リア充になる
- ぼっちになる
ほら、簡単でしょ?
リア充になる方法
とりあえず、Googleの検索窓で「りあじゅう」まで入力してみようか。
- 「リア充になる方法」
- 「リア充になりたい」
そんな項目が検索候補にあがってくるね?
答えはその中に。
「リア充になる方法」とキーワード検索してしまうその行為自体が、あるいはキョロ充的なのかもしれないけれど仕方ない。
できることから始めるしかないのがこの世界のルールなのだから。
もちろん、できることから始めたからといって目的を達成できるとは限らないというのも、この冷徹な世界のルール・ブックには記載されているのだけれど。
ぼっちになる方法
ぼっちになる方法はもっと簡単で、自分から声を掛けたりと言った行動を何もしなければすぐにぼっちになることができる。
家でも、教室でも、部活動でも、サークルでも、どこででも。
あなたがいないと盛り上がらないと思ってたグループは平常運転。
あなたのツッコミやイジリが輝かせていたはずのあいつのボケも、他の誰かがうまくフォロー。爆笑。
脳内一人会話妄想、乙。
誰かに話しかけられちゃう妄想、乙。
ぼっちになるなんて、簡単だ。
ウェーイwww
心理的葛藤
自分が属すると考えるグループやコミュニティを抜け出すことは簡単ではない。
おそらく、動物としての人が進化の過程で身につけた本能的な恐怖感がそこにあるから。
恐怖感は消えない
恐怖はいつまでたっても消えることがない。
それは、キョロ充でいること自体が恐怖のタネであるのに、キョロ充をやめることを恐怖してしまっているため。
キョロ充が辛くてやめたいのなら、恐怖を抱えつついつもとは違う何かしらの行動をとるしかない。
「リア充っぽい」と思ってることを自分自身の経験としてやってみるか、「ぼっちっぽい」と思っていることを敢えてやってみる。
実のところ悩み始めた時点で、解消法は提示されている。それを行動に移せない逡巡タイムのことを「悩み」と呼んでいるに過ぎない。
おすすめは、ぼっち
キョロ充で悩むほどの人が、無理してリア充になろうとすることはオススメしない。
恐怖に打ち克つ唯一の方法は、恐怖する対象に近づくことだ。
あなたがキョロ充でいる理由は、リア充になれないからではない。ぼっちを恐怖しているためだ。
ならば、あえてぼっちになってみよう。
既に見た通り、あなたが済む世界はあなたをぼっちにするために作られたような世界なのだから、ぼっちになることは難しくない。
医療科学技術が発達した現代では「ぼっち」が死因になることもほとんどない。
最初の一歩
そんな固い決心も、「いつも」の光景に身を浸した時点で捨て去られ、これまで通りのキョロ充的行動をとってしまう。
それは、あなたが、あなた自身の決意を信頼しすぎているためだ。
決意や意志は脳内に留め置くことが難しいもの。
確かに活かすには、自身の外側にカタチあるモノとして“見える化”するのがオススメ。
プラセボ製薬株式会社は、あなたの決意にカタチを与えるプラセボ食品『プラセプラス』を販売している。
プラセボ食品『プラセプラス』
プラセボとは何か?
「偽薬」だ。「ぎやく」と読む。
薬効成分や有効成分を一切含まない食品、偽錠剤だ。
そこには何も含まれていないが、だからこそ決意などといった無形の意思を込めることができる。
なにもない、だからこそ
あなたが決めた行動指針を実際の行動に移す前、堅い決意の塊として飲み込んでみよう。
そこには何ら有効な成分は含まれていないけれど、だからこそ、込められた決意はあなたの行動を指針に沿わせてくれるだろう。
ぼっちになっても大丈夫だ、と。
ぼっちだと周囲に思われても大丈夫だ、と。
自分に言い聞かせてみよう。
人生の充実度は、「孤独」の捉え方で変わってくる。
孤独との付き合いを覚えるのに、乳児や幼児では早過ぎる。だが、高校生や大学生、ましてや成人後の社会人にとって遅すぎることは決してない。
一人で世界と対峙することに恐怖するだろうか?そこにポジティブな感情が起こり得る余地は一切ないと考えるだろうか?
それは自分自身の身を持って確かめてみてほしい。
善き人生を、『プラセプラス』と共に。
老婆心で述べておくが、偽薬なんて一生飲み続ける必要はない。人の習慣は2週間、14日間程度で変わってしまうという説もあるくらいだから、継続期間はその程度と見積もっておくと良いだろう。
嫌われる勇気
自尊感情や自己肯定感は、インスタントにお湯を注いで3分待てば手に入るものではない。
もちろん、ラップにくるんでレンジでチンしたってホットなセルフ・エスティームが手に入るわけではもちろんない。
でも、実際のところ、手に入れるのが難しいわけでもない。
アドラー心理学
『嫌われる勇気』はベストセラーになっているから、もう読んだことがあるかもしれない。あるいは本屋で平積みにされているのを目にしたかもしれない。
「ぼっちになってみろ、できればプラセボを飲んで」と言われたからってすぐさま即座に実行に移せるのなら苦労はしないと嘆いているくらいなら、この本を手に取ろう。
アドラー心理学について知ることから始めてみよう。
できることと、できないことがハッキリするだろうから。
どうにもできない事柄
アドラーの思想の源流にあるのは、問題を切り分けるという発想だ。
未来に向かって変えることのできる対象は常に「自分」であり、「自分」だけなのだ、と。
したがって、「他人がどう思うか」は自分にはどうすることもできない問題なのだから切り分けて考えましょう、と。
ぼっちが怖いのは、深い孤独を実感することによって自らの内に湧き出づるであろう感情や感覚に押しつぶされる予感がするためだろうか?
はたまた、他人の視線に晒されあーだこーだと噂の対象となるのが怖いのだろうか?
自分の頭で考えることを放棄していては、幾ら時間をかけても自尊感情や自己肯定感を得ることはできない。
反対に、自ら問題に対峙し、それを切り分け、適切に対処してみようと意欲するその時点で、自尊感情や自己肯定感は得られたといっても過言ではない。
その意志を大切に。