髪をも恐れぬ…もとい、神をも恐れぬ女子高生・笠原メイはカツラ・メーカーでアルバイトをしながら、すごおおく真面目に働く社員(?)に対し、「ハゲ」をこんな風に言い換えました。
『頭髪の不自由な方』
「ハゲ」を差別用語とするそのカツラ・メーカーでは『薄毛の方』と称することが規定されており、『頭髪の不自由な方』って冗談で言ってみたらすごく怒られた話が村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』に書いてあります(もちろんフィクションです)。
その後、さとうみつろう氏の『神さまとのおしゃべり』を読みながらこんな風に思いました。
我々はいわば『信仰(信じること)の不自由な方』かもしれないな、と。
信仰、してますか?
あなたが何を信じてるかって、宗教団体に属していればその教義なんかを信仰していると言えそうですが、そうではない多くの日本人にとって神や仏やお地蔵さんも信仰の対象とは言えないような気がします。
何を信じてるかって、別に特に何にも信仰してないかな?
そんな風に思っていました。神さまと出会うまでは…。
神さまとの邂逅
もちろん神さまを見たとか感じたとかそういうスピリチュアルな話ではなく、さとうみつろう氏の『神さまとのおしゃべり』を読んだだけですが、私たちが信じているものについて気づかされることがありました。
現実こそが、信仰である。わたしが信じることは、イコール現実(眼前にある世界・宇宙)である。
神さまの助言に従ったり従わなかったりするみつろう氏は幸福を求めて…の続きは是非本書でご確認ください。
プラセボ効果と「信じること」
さて『神さまとのおしゃべり』で何が一番気になったかって、その核となる幸福論…ではなくって、「信じること」のままならなさは、すなわちプラセボ効果の不思議さに直結しているのではないかということです。
信ずべき現実と、こうありたい未来の話
プラセボ効果が現れる前、何らかの不調を抱えた人の現実(=信仰)はこんな感じでしょうか?
この現実は、ある種の医療行為(だと“信じることのできる”行為)を通じて、変化を見せます。
もともと信じていた現実(病的状態)は、医療行為だと信じる行為によってまた別の現実(治癒状態)へと信仰の対象を替えていきます。
医療行為だと信じていたのはその人がもともと持っていた信仰だと考えられるので、プラセボ現象はこんな風にまとめられるかもしれません。
現信仰A × 現信仰B = 新信仰C
これって、ちょっとスゴイと思いませんか?
信仰の不自由な方
持ち合わせの信仰(AとB)を掛け合わせることで、新たな信仰(C)を生み出せる。そうした思考(信仰)の柔軟性がヒトには備わっているようです。
じゃあ、どうして『信仰の不自由な方』なの?
それはプラセボ効果と呼ばれる現象を見てもわかる通り、信じたいこと(理想)とは別に信じていること(現実)が存在し、今自分が何を信じているかも自覚するのが難しいためです。
繰り返しますが、信じていることこそが現実です。神さまの言う通り。
プラセボ効果を科学的(人為的)に駆使して病気を治癒する試み、あるいは製薬企業がプラセボ効果を制御して画期的な新薬を次々と生み出すことが難しいのは、こうした「信仰」を科学の対象として扱いきれないからのように思われます。
超越的存在と感謝とおまじない
『神さまとのおしゃべり』終盤、絶対に幸せになれるおまじないが披露されます。その原理の論理的な説明を求めるみつろうに対して神さまはこう言います。
神さま「いいか、みつろう。おまじないが効くのは、その仕組を理解できない時だけじゃ。ようするに、お前の表層意識の理解力を超えた時、おまじないは効くんじゃ。」
「おまじない」と「プラセボ効果」。それは、互換性のある同一原理の言葉なのかもしれません。
お地蔵さんへのお供え物は?
作家・村上春樹さんも受験を目前に控えた読者の「全力を発揮できるおまじないを教えてください。」という質問に対して、「おまじないのことはよく知りませんが、お地蔵さんにドーナツをお供えするといいことがあるみたいですよ。」と答えています(「村上さんのところ」2015-03-08『お地蔵さんはドーナツが好き?』)。
それは論理を超えているからこそ、やはり効くことがあるんじゃなかろうかと、そんな風に思います。