『からだのひみつ』と進化論で説明がつくかもしれない死や老化という生命現象

当ブログを運営するプラセボ製薬では、自分の身体に自信を持つことで新たな、そして多くの人にとってはよりよい健康観が得られるはずだと考えています。

自尊感情の対象に、概念的な「このワタシ」ではなく、実体的な「このカラダ」を据えてみること。カラダが体現する生命システムに信頼を寄せること。生命システムの壮健性に依拠した物語を描くこと。

簡単に言えば身体その他についてのよりよき説明をしてみたく、それを試みているということです。

価値観の押し付けにならないよう、「へぇ、そんな考え方もあったのね。一理あるかも。」みたいな淡い納得感を抱いてもらいたいなと、そんな風に。

身体の秘密

そうした試みは既にあって、というか一部ではドンドコ前に進んでおりまして、今回紹介する書籍『からだのひみつ』(著:田口ランディ、寺門琢己)もその一つ。多数の小説を出版されている作家・田口ランディさんと治療院を主宰されている整体師・寺門琢己さんの対談本です。

ちなみに、文庫版ではなく単行本版の初版は2000年の12月。「世紀末」とか「やまんばギャル」とか出てきますので、時代背景を押さえておくのが良いかも。15年の歳月は、ある意味で大きな変革をもたらし、またある意味ではなーんもかわっとらん、という実感が得られるはず。

身体言語

『からだのひみつ』というタイトルの通り、この身体についてのお話があけすけに語られています。その中で出てくる「身体言語」という言葉。一般的には「身体言語」は「ボディランゲージ」と解されるそうですが、ここでは「身体の諸現象をことばにするための道具」くらいの意味合いで使われています。

で、ココが重要なのですが、「身体言語を開拓すること」と、冒頭に挙げた「カラダその他に関するよりよき説明を得ること」は非常に近いのです。

直に身体に触れてきた鍼灸師や整体師の知恵は、西洋医学的に否定されがちではあるものの、捨て置くべきではありません。もちろんそのすべてに納得する訳ではありませんが、傾聴に値するものもあるかと。

性的な話題への違和

ただ、本書で触れられる内容には性的な話題がかなり多く、その展開が個人の思想や体験に完全に依拠した偏ったものであることに面食らう方もおられるかもしれません。もちろんすべての人はその人なりに偏ってはいるのですけれども。

  • 女性性とは、こういうものだ。
  • 男性性とは、こういうものだ。

そうした決めつけについては、ある種の精神的な距離を置いた方がよいかもしれない。とか、言う必要もないのでしょうが一応。念の為。

逆にそうした考え方に触れることで自分自身の考え方が明確にはっきりとクリアに映し出される可能性を秘めた、鏡的価値があるのかもしれませんけれども。

それもこれも「世紀末」のせいだ!ということにして、先へ進みましょう。

「説明」を得ること

身体に関するよりよき説明をえること、身体から生起する現象を語る「身体言語」を開拓すること。こうした試みになくてはならないのは、「説明原理」という考え方です。

説明原理?

何かを説明するためには、論理性がなければなりません。もちろん自分に対しても、他人に対してもそう。論理性こそが説明の要であり肝なのです。

しかし、この複雑系を基礎とする世界では論理が成立し得ない事象もたくさんあります。1時間後の株価は予想できないし、10日後の天気も予想できない。そこには論理を超えた複雑系システムが潜んでいます。

ただ、人間にとって論理を超えるものは不安の対象になりますので、それを打ち消すために、大抵の場合は証明可能性を排除した原理を持ち込む癖があるようです。本能と言い換えても良いかもしれない。

「神」とか「運」とか「奇跡」とか「妖怪」とか。それに、「プラセボ効果」とか。

この、説明のために創出される原理を「説明原理」と呼びましょう。

複雑系の、このカラダ

同じことは我々の身体にも言えて、単細胞生物ですら複雑系のシステムであり、60兆個の細胞で構成されるこの人一人という恐るべき複雑性を内包したシステムに誰しもが納得する論理を見出すことは不可能といってもよいくらい。

少し前まで(一部は今でも継続中)の科学界では論理の行き着く先を「遺伝子」に据えて、原因遺伝子による説明を試みることが流行りました。が、現在のところ有用な知見は、かつて期待されていた成果と比較して、限られています。

一方、東洋医学に根差す治療体系においては、「気・血・水」や「証」や何やかやを説明原理とする身体言語が発達し、治療家独自の視点も加えつつ現象を語る説明を試み続けています。

『からだのひみつ』においても骨盤がどうたら腎臓がどうたらと、それを既に受け容れた人にとっては聞きなれた心地よい身体に関する説明が断定的にズバリと提示されています。

こうした説明の基となる「説明原理」は、よく言えば経験に基づく直感主義、悪く言えば証明不可能な第一原理主義と言えるでしょう。

つまり、正しいか否かは問題じゃない。本人が納得できれば説明はなんでもえぇねん。

エビデンスがどうのこうのと説明の正しさを議論したがる場合も多いのですが、実のところ「正しい説明」は存在せず、ただひたすらに「納得できる説明」を付けるしかないのかもしれないのじゃないかと。もちろん投げやりになっているわけじゃなく、その中でも「より良い」みたいな価値基準が設定できるのではないかと。

では、その基準は何か?

その説明が、自分の身体に自信を持つことに資する説明がより良い。

この基準では科学的な正しさは価値を失うかもしれないのですが、それでも。

進化論的説明

ただこうした議論においては、「証明はできないけれど、とりあえず進化論を説明原理に据えてみましょうよ」という考えが主流になっています。

そして驚いたことに著者の一人、田口ランディさんはこの2000年発刊の『からだのひみつ』においてその進化論的説明を試みられています。ちなみに「個人の死」と「類としての死」を進化論的に捉えようとする試みは、死や老化の意味論として現在でも盛んに議論されている話題です。

さらには、カラダ自体の疎外や隠蔽を「個人の死」への恐怖なんかで説明してみたり、あとここでは書けないことも色々と書いて(語って)らっしゃって、「××は早く死ぬべし」みたいな、それも含め面白いなぁと思いました。