どうしてプラセボにこだわるのか。
どうしてプラセボに興味を持つに至ったか。
それが問題だ。
プラセボをつなぐキーワード
プラセボについて考えていて、一つ浮かんだキーワードが「媒介」です。
媒介
ここ数年で「面白いなぁ、不思議やなぁ」と感じる物事には、悉く媒介的な機能が含まれていました。
- 生命
- 時間
- 言葉
- 貨幣
- プラセボ
生命がエネルギーと時間を、時間が過去と現在と未来を、言葉がヒトとヒト(あるいはヒトと物語)を、貨幣が信用と価値を媒介するように、プラセボは「嘘」と「本当」を媒介するみたいです。
ホントかな?
嘘と本当
嘘が嘘であるためには何らかの本当(真実)が必要とされるけれども、嘘がなければ本当もなく、その境界はいつも曖昧で。
嘘と本当が目を凝らしてよーく見ないと判別できないのなら、都合よく嘘に身を委ねるのも悪くないんじゃないかしら。
『ヴェニスの商人の資本論』 (ちくま学芸文庫)でも指摘されているように、媒体はその媒介する物事の境界を淡くしてゆきます。
虚実綯い交ぜのこの世界で『ほんまのこと』を相対化するにあたって、プラセボは最適の道具であると考えています。
期待と効果
またプラセボが「期待」と「効果」を媒介すると考えても面白いですね。
「こうなってほしい!」という期待が、プラセボに託して媒介され、「こうなった!」として実感される。
そこになくてはならないものとしてプラセボが介在していることは、非常に興味深いです。
さてその期待は、自分の期待、でしょうか。それとも、他人の?
よくわからない、というのが実際のところです。
当ブログにできること
わからないことを、わからないこととして公表する。
それが当ブログの使命であると考えています。
もちろん、知る努力は惜しみなく。
真摯なご指摘、素朴な疑問、ありえへん質問、バカみたいな問いかけには全力でお答えしますので、よろしくお願いいたします。