医療批判に関する大きなトピックとして、対症療法薬の濫用に対する警鐘および批判があります。
対症療法薬は文字通り「症状」を抑えるだけの薬であり、疾病に対する生体の正しい反応である「症状」を抑えることは、そもそもの疾病の治癒を遅らせてしまう。さらには、別の病気まで呼び込む可能性がある、と言うわけです。
もちろん、医者もそれを把握しています。
全ての医者が金儲けを目的に医薬品を処方し続けているなんて、あり得ない。
優しさと見栄と信仰と
しかしどうして、それでも医者は対症療法薬を使い続けるのか。
それは、「優しさ」と「見栄」と「信仰」のためではないかと思います。
医者の優しさ
医者なら当然、これに類する意志を持っています。
そして、その苦しみを軽減させる手段としての対症療法薬さえも持ち合わせています。
これが「優しさ」です。
医者の見栄
また、医者が『私は、患者を救うことができる』という職業的自負を抱くのも当然のことです。
そしてそこには、「積極的な関与」がいつだって用意されねばなりません。
医者が語りたい治癒の物語は、「見栄」による脚色を受けて完成されます。
医者の信仰
あるいは、これまで受けてきた医学教育において正解とされてきたものに対する「信仰」があるように思います。
正しいことは、正しくなされなければならないという倫理観や正義感は、医者の行動を決定付けるのに十分すぎるほど強力な動機となります。
さらには、これまでやってきたことと矛盾する行動は選択できないという「一貫性の原理」が、これを後押ししているのかもしれません。
患者の強欲
一方、患者側にも問題があると言わざるを得ません。
ゼロリスク信仰
行き過ぎた健康観があります。
こうした無謬性を求めるゼロリスク信仰は、不安症的な行動をとらせます。どこにも不安がないことは、いくら調べても保証されません。
無茶な要求
医学の限界を無視した要求もあります。
強欲とも呼べるような欲望は、対症療法的な治療によってお茶を濁すしか対処ができないのではないかと推察します。
本当に対症療法的な医療で良いのか、と言う点に関しては患者サイドでも十分に考慮される必要があります。
プラセボの有用性
不安な患者と、誠実な医師がいる限り、対症療法的な医療が捨て去られることはないでしょう。
ただ、その医療の現場において、プラセボの居場所がありはしないか。
例えば、消極的な治療(≒時間経過による治癒を妨げない治療)をプラセボで実現できないだろうか。
当ブログでは、医の現場におけるプラセボの活用を考え続けたいと思います。