「信じる」は、普通に使う分には何ら疑問を抱くこともなく使えてしまう、単純な日常語です。
しかしその「信じる」について、『習慣の力』(チャールズ・デュヒッグ著、渡会圭子訳、講談社)という本に気になる話が出ていました。
信じるとは何か?
第1部、第3章。以下のようなことが述べられています。
「信じること」の正確なメカニズムは、いまだにほとんど解明されていない。(中略)しかし習慣を永遠に変えるには、それが可能だと信じる必要があるのは確実のようだ。
『習慣の力』(単行本版、p136-137)
信じる、がわからない
本書は習慣について書かれています。そして、習慣の変化には、信じることが必要不可欠だと。
しかし、そもそも「信じる」とは何か。どのようにすれば「信じる」ことになるのか、そのメカニズムについては分かっていません。
日常的な体験に基づいてみても、「信じる」と宣言すれば完全に信じられるかと言えばそうではありません。
どちらかと言えば、信じられない面もあるけれど、仕方なしに「信じる」と宣言して自分を納得させている気がします。
プラセボ効果が現れるときには、習慣の変化と同様に、信じることが必要とされるだろうと思います。
「信じる」とは何かが分からなければ、プラセボ効果の理解もおぼつかないでしょう。
信じるための、他者の介在について
また、習慣が変化する際の、他者の介在の必要性についても書かれています。
「変化は他人のあいだに入ったときに起こります」(中略)「他人の目を通してものごとを見られるようになったときに、変化は現実味を帯びるのです」
『習慣の力』(単行本版、p136)
もし習慣の変化が「信じる」を必要としており、そこに常に他社の介在があるのだとすれば、信じることと他社の介在には何らかの必然的関係があるのかもしれません。
「プラセボ効果」もやはりまた、例えば患者と医者のように、自分自身と他人の関係からしか生まれないし、自分一人では現実味を帯びることもありません。
他者の介在が持つ機能が分からなければ、プラセボ効果の理解はやはりおぼつかないでしょう。
プラセボ効果と習慣
こうしてみると、「プラセボ効果」と「習慣的行動」には何らかの関係があるのではないかと思えてなりません。
本書によれば、「習慣」の機構に科学のメスが入ったのはまだまだ最近のことらしく、今まさにホットな分野だそうで。
もしかすると、「習慣」の研究が「プラセボ効果」の研究に応用できるかもなぁ、と期待。