いつかやってくるその日のために、エンディングノートを書き遺す人が増えています。
終活とは?
エントリーシートなどを企業に提出し、説明会に出向き、面接を受けるなど、特に日本の若者が行う就職活動。略して「就活」。
数年前までシュウカツといえば専らこの「就活」を指す言葉でしたが、2015年現在、同じ音の響き、違う綴りの「終活」を行う方が中高年から高齢者を中心に増えているそう。
終活とは、そもそもは人生の終わりに向けた事前準備的活動のことであり、特に死にゆく者が望む自らの葬儀の形などを遺族へ伝えおくことで、死後でも自らの意志を反映することができ、またそのことが遺族の負担を緩和するような活動を意味していました。
- 突然の死が訪れた時、家族は何をすべきか?
- 葬儀を執り行うなら誰を呼び、どのような規模・形態で行うのか?
- また資産や負債の状況を把握するにはどうすればいいのか?
事前に想いを書き遺すことは、思いのほか無用の混乱を遠ざけてくれます。
2012年に夭折された流通ジャーナリスト、金子哲雄さんの逸話はそのことを雄弁に物語っています。
これからの終活
死にまつわる事前準備と捉える終活観は次第に洗練され、また実行者の多くが実感する想定外の効用が明らかになるにつれ、終活およびエンディングまわりの状況は変化しつつあります。
- 死を見つめることで、今の生をはっきりとさせる
- 残りの人生をいかに生きるか考えるきっかけとする
生前に遺志を書いておくことで整然と死を迎えられるようにする終活から副作用的に生じた、生きることの実感。
断捨離など、モノや関係性をとにかくたくさん所有・保持することを目指してきたこれまでの人生を簡素化する方向へと誘う思想や活動と相俟って、人生を振り返ることで見えてくる何かがあるようです。
卒業
何かを最後に卒業したのはいつでしょうか?
学校など儀式として明確な卒業の日を設定してくれるのでなければ、人生において何かを卒業する日はそう多くありません。
いつしか疎遠となったあの人、あの活動、続いているのか続いていないのかよくわからなくなってしまったそれらも、気持ちの上ではどこか繋がっているのかもしれません。
自分だけの、卒業式
自らの、人生まとめりゃ、このノート。
生きてきた中で付き合いのあった人、物、関係性。抱えきれないほどあったはずのそれらも、情報としてまとめてみたらばノート一冊分に収まってしまうようです。
今の時点で自分に必要なものを仕訳し、不要なものや人間関係を敢えて捨ててしまうことでしがらみを脱し、これからの人生を悔いなく過ごす羅針盤とする。
もったいない精神で何でも捨てずに生きてきた世代や人にとっては難しく感じられるかもしれませんが、実際にやってみるとその効果は計り知れず。身軽になった精神の浮揚感すら感じることもあるようです。
終活における医療・介護について
終活を扱う書籍やエンディングノートでは、「万が一の」の枕詞に続いて「介護」の文字が並びます。
介護される側に回るという、あり得ぬべき未来や異世界をできる限りリアルに想像してもらうためのステップでもあります。
うけたい医療・介護
万が一で介護が必要になった時に意思の伝達がうまくできなくなっていたら、周囲の家族などのが移行で代替されることになります。
もし現時点で「もし○○になったら、こうしてほしい」と書き残しておけば、その意志が尊重される可能性が大いにあります(状況が許せば、ということになろうかとは思いますが…)。
また2015年現在ではまだまだ議論のある医療的判断(尊厳死、延命措置、胃ろう、など)についても、意思の伝達が難しい場合でも自らの価値観に従った行為が実行されるよう事前に言い含めることができます。
逆に、繰り返しになりますが、そうした自らが受けたい医療や介護を通じてこれまで意識されることの無かった医療観・介護観あるいは人生観や死生観が明らかになる場合もあり、人生そのものの捉え方が変わることも考えられます。
医薬品について
プラセボ製薬ではプラセボ(偽薬)を販売している都合上、どうしても医薬品について考えることが多くなります。
終活と医薬品。
超高齢化が進展し、ある場合には過剰な薬物処方が横行する日本の社会において切っても切れない関係にあるこの2者に関しても、エンディングノートを綴る上で考えておきたい事があります。
卒薬をめざして
ヒトの死後がどうなるのかについて想像力逞しくあれやこれや議論がなされてきましたが、あの世へは現世のしがらみさえも持って行かれないというのが一般的な理解となっているようです。
恐らく、どれがどれやらよくわからないままに飲み続けている大量の医薬品も、あの世までは持って行くことは出来ません。
医薬品を卒業する日
だとすれば、死を迎える前にいつしかクスリを飲まない日がやってくるのでしょう。
医療信仰・健康信仰の御本尊に「不死」が祀られているのであれば薬との決別は信仰を捨てることにも繋がるので中々難しいと思われますが、「意義ある生」や「悔いのない生」を新たに祀ることで可能となるかもしれません。
終活の一段階として医薬品を卒業すること、すなわち「卒薬(そつやく)」を目指すことを提案します。
よくある問題
高齢者介護の現場で頻繁に起こっている医薬品に関する問題は、3つあります。
- 薬を飲み忘れる
- 薬を飲んでくれない
- 薬をたくさん飲みたがる
それぞれの対応を見てみましょう。
薬を飲み忘れる
もしあなたが薬を飲み忘れたら、どうしたいですか?いつしかやめたいと思っていたその薬を、今、自然にやめたのだと考えることは出来ないでしょうか?
ただちに影響のあるインスリンなどの生理活性物質由来の医薬品以外、ライフスタイル・ドラッグとよばれる高血圧や高脂血症などのくすりは、「いつか」や「もしも」を遠ざけるとされている薬です。
でもこうしたお薬を死ぬまで飲み続けることで達成されるのは、「死を遠ざける薬を死ぬまで飲み続けることができた」という素敵な目的だけです。
飲み続けた薬の分だけ、日本の財政に、子供や孫の財布に負担を強いることにも繋がっていると考えれば、それを目指すのが全く正しいとは言えないでしょう。
薬を飲んでくれない
「薬を飲んでくれない!」と悩むのは、専ら介護者です。介護される側は「飲みたくもない薬を無理やり飲まされる!」と逆の悩みを抱えています。
自ら服薬管理を行うことが難しくなり、なおかつ服薬拒否が問題となる場合、その意志に従い服薬をしないこととします。
なお、医薬品を服用しないことにより起こる問題の責任は、全て私に帰すこととします。
その一筆、あるいはそうした項目にエンディング・ノート上でチェックを入れておくことにより、あなたは「卒薬」へ大きな一歩を踏み出すこととなるでしょう。
介護者にとっても、どれだけ負担が軽減されるか分かりません。
もちろん介護者側が症状進行を抑えるなどの目的で薬を飲ませたがる場合もありますので、すんなり解決しない場合もあり得ますが…。
薬をたくさん飲みたがる
自らの未来を的確に想像できる人は少数で、自分が将来どうなるかは自分が一番わからない、と齢60を超えて不惑の外側におられる方も大勢おられるかもしれません。
老いや死に対する不安がエンディングノートを書いている今とは違い現実的な恐怖を伴って巻き起こる時、平静ではいられないかもしれません。
現に、ありとあらゆる不安が薬の過剰摂取を促すようです。「病気が悪くなる」、「眠れない」、「そこかしこ痛い」、「便秘」などなど、不安と現実的な悩みをお手軽に解消するための医薬品に依存し、薬を飲みたがる高齢者はかなりおられます。
そんなとき、副作用をともない健康を害する可能性のあるホンモノの医薬品に替り、医薬品のニセモノとして偽薬を使うことが奨励されています。
偽物と言っても怪しいものではなく、広く一般的に用いられる食品成分をクスリの形に成形しただけの食品です。
自ら服薬管理を行うことが難しくなり、なおかつ過剰服薬が問題となる場合、その意志に沿う形で偽薬の使用を試みるようお願いいたします。
そうした一筆が、身近な介護者の心理的ストレスを軽減することがあります。自らの「卒薬」にも、また一歩。
さらに医薬品の過剰摂取が医療費を高騰させ、健康保険財政を圧迫し、課税強化を通じて将来世代の負担を増大させることを思えば、偽薬の使用は間接的には子や孫への貢献にもつながるはず。
プラセボ的価値観
もちろん、上記はある価値観に沿った偏りのある意見であり、その正当性を問われれば非常に疑わしいと言わざるを得ません。
ただ、あなた自身の価値観もまた、あなた以外の誰かに委ねることのできないものであり、同時にあなた以外の誰かにその正当性を認めてもらう必要のないものです。
ご自身の考えられる生と死のあり方について、あなたの価値観を明らかにするためのご参考とお受け取りいただけましたら幸いです。
善き人生を。