※写真は本文と関係ありません。また、本記事には『ちーちゃんはちょっと足りない』(阿部共実 著、秋田書店)のネタバレが含まれています。
コトバのハナシ
ある人の特徴を、それを表す身体の一部が足りてないことで表現する言葉が日本語にはいくつかあります。発音が不明瞭だったり、表現が幼稚だったりするのを「舌足らず」と言うように。
誰かをバカにして「ノータリン」呼ばわりすることも最近ではあまりないような気がしますけれど、「脳足りん」という言葉も存在しています。『広辞苑 第六版』(岩波書店)から該当項目を引いてみましょう。
のう-たりん【脳足りん】
(脳味噌が足りないの意)人をののしる語。馬鹿。阿呆。
中々ですね。婉曲表現と言っていいのか、直接的過ぎる気がしないでもないのだけれど…。
もちろん作中には「ちーちゃん」がちょっと脳足りんと書いてあるわけではなくって、まぁただただちょっと足りないだけかもしれません。
実際に読まれてから判断されることをオススメします。
ちーちゃんはちょっぴり足りてない
タイトルからしてちょっと足りないちーちゃんを生温かく、ゆるく見守るアハハでエヘへなお話かと思われるのですが、そんな作品では『「このマンガがすごい!2015」(宝島社)オンナ編 第1位!!!』に選ばれるわけもなく(たぶん)。
中学2年生女子と言えば、小学生の頃を思い出して「昔はものを思はざりけり」と思い悩むほどあれやこれや悩み悩まれ振り振られ振り回されるお年頃みたいです。
物語の主軸はいつしか、ちょっと足りないけれども、ちーちゃんよりはちょっと足りちゃってる気がしていたもう一人の女の子に移ってゆき…。
「このマンガはすごい!」そんでもって、「このマンガ表現はすごい!」
正直、最後から数ページに至るまで大団円のはっぴぃ・えんどを期待しました。ううう。
勝手な健康観的解釈
このマンガを出汁にして(すみません)、ちょっぴりこじ付け気味に健康観について書いてみようと思います。
人間関係における悪意の解釈
『ちーちゃんはちょっと足りない』の作中で人間関係がすれ違ってしまった原因は、ある人が基本とする接し方が別の人とは異なっていることにあるような。
ある人にとっては友好的な接し方が基本であって、敵対的とか好戦的とか、友好的以外の接し方をする人は何らかの悪意に基づいていると解釈されてしまいます。
しかし、ちょっと突っかかり気味に他人と接する人がみんな根っから悪い人という訳では全然なくって、逆に笑顔で近づいてくる人全てが善人という事もありません。
健康観における悪意の解釈
他人の事がわからないのと同様に、我々は自分自身のカラダの事もわかっていません。
人間ドッグなどを提供している権威ある専門の医療機関から「要精密検査」などの敵対的な指摘を受ければ、すなわち身体がどこか悪く、したがっていずれは病に伏せってしまい、ゆくゆくは死んでしまうんじゃ…と際限なく不安は広がってしまいます。
ちょっとした解釈の行き違いで悪に交われば善も悪になって、どうにもこうにも突き放さずにはおれなくなってしまう。「どこか悪いんじゃなかろうか?」と考え始めると「きっとヤバいんだ…」と思い詰めてしまう。
そうこうする内に、その観念を自己実現させてしまうことだってあります(専門用語でノセボ効果と呼ばれる)。
ある時あなたの身体があなたに対して敵対的に見えたとしても、そこに悪意はない、のかもしれません。ただそういう様態でしか想いを伝えられないだけかもしれませんので、早とちりの判断だけはなされませんよう。