認知症の症状は時間と共に深まっていきます。
- 人格の崩壊
- 壊れていく
- ばかになる
このような負のイメージとして捉えるのが現代医療的な主流の考え方となっています。
医療よりも介護が重要
一方、日々認知症の方と時間を共にし生活の様々な側面をケアする介護福祉士や介護家族、高齢者福祉施設で働く介護職の方々の中には違った見方をされている方も少なからずおられます。
偽薬(プラセボ)の活用と愛情を込めたウソが導く柔らかな介護を実践して、ご家族・お年寄りの介護におけるイライラを少しでも軽減できますよう。
「快・不快の原則」と「現実原則」
『認知症介護が楽になる本 介護職と家族が見つけた関わり方のコツ』では、人の成長と共に行動原理が変化してゆくことが説明されています。
心地よい・心地悪いといった感覚的な快・不快に応じて笑ったり泣いたりする赤ちゃんは、誰かの事を慮って行動を制限することがありません。
しかし成長の過程で様々な経験から社会性を身に着け、社会の中で快適に生きていくためには現実的な制約を受け容れた方が良いことに気が付き、自ずとそれを実践してゆきます。
認知症や痴呆あるいはボケと呼ばれるのは身に付けた「現実原則」という名の社会性を脱ぎ捨て、ヒトの基本的な姿として「快・不快の原則」に基づいた行動を取り戻してゆく過程です。
原則間の齟齬
「現実原則」は、以下のような形で記述できます。
- こういう場面ではこうしなければならない
- ここでそんなことをしてはだめだ
介護する側がそういった現実的な原則に基づいて判断するため、「快・不快の原則」に基づく行動がおかしく思えてしまう。
- 異常なもの
- 精神障害によるもの
- 排除すべきもの
- 阻止すべきもの
認知症高齢者の介護におけるストレス、イライラの一端はこうした原則どうしの齟齬が担っています。
「快・不快の原則」が示す新たな介護のかたち
周辺症状などと呼ばれ、異常行動と目されている認知症の方の行動の多くは不快の解消を目的にしている場合が多々あります。
異常行動?
異常行動と目される代表的なものがこちらです。
- 弄便:自分のうんこを触ったりしてしまう
- 帰宅願望:家に居ながら家に帰りたいと望む
しかし、これらの行動はおむつの中にうんちがあることの不快を解消しようとしての行動であったり、言い知れぬ不安感の解消法を家に帰ることに求めたりする行動、すなわち「快・不快の原則」に基づいた行動に他なりません。
介護者が目指すべきは、こうした異常行動を正すことではありません。
不快の元を実直に見つめ、観察し、個別の対応でもってそれを取り除いてあげることです。
個別的な環世界、イリュージョン
人間も動物である。この認識は時に、テクノロジーの所産に囲まれた日常生活や人工物に溢れる社会生活を送るなかで忘れられてしまいがちです。しかしながら、人間が動物であることは厳然とした事実です。
なぜこのようなことを強調しなければならないのでしょう?
それは、人間と動物の世界の見方が異なっているのと同じくらい、人間同士、個人間での世界の見方が異なっている場合があるためです。
動物学者のユクスキュル博士が『動物から見た世界』において「環世界」の概念を提唱したように、これまた動物学者の日高敏隆先生が『動物と人間の世界認識』で「イリュージョン」と称したように、世界の見立ては非常に主観的で個別的なものです。
介護者、被介護者の双方が観ている客観的な世界を想定した行動理解は、得てして不可能です。
相手が観ている個別的な世界を、自分のものとは異なるものとして受け容れることがまずは肝心でしょう。対応法の検討は、そうした基礎理解から始まります。
介護をする家族の心
『認知症介護が楽になる本 介護職と家族が見つけた関わり方のコツ』では、アルツハイマー型認知症の夫を介護し最期を看取った多賀洋子さんの体験が記されています。
献身だけでは続かない
体験記では愛情や献身など意志に基づく決意や心掛けが、介護を通じていとも簡単に揺り動かされてしまう実例が克明に記されています。
波立つ心と折り合いをつけることがいかに難しいか、それを正直に語っておられます。
そして、認知症を介護ケアする家族には、認知症対応モードが必要だと述べておられます。
認知症の方はその人に固有の精神世界の中で過ごしているため、介護者の認識とはズレが生じます。しかし、認知症の人の精神世界を介護者の認識する世界に引きずり込むことはできません。ケアする介護者の側が、寄り添ってあげることしかできないのです。
そのため、愛情を込めたウソを有効に利用した認知症対応モードが大切だと記されています。
ウソを契機に
認知症介護の困難は「与えた分だけ返ってくる」という期待が裏切られやすいことにあります。どれだけ手を尽くしても求めた物が手に入らない時、往々にして人は絶望的な気持ちを心にため込んでしまいます。
介護には一種の諦念、諦めが必要とされる由縁でしょう。
絶望を抱えたままの介護は長続きしません。どこかで切り替えるか、自然とあきらめの気持ちへ切り替わることを学ばねば、介護者が先に参ってしまいます。
ウソをつくというのは、その入り口として、取っ掛かりとして非常に有用なように思われます。
非日常を演じる舞台
健常な社会生活を送っていると信じている私たちも、社会的な要請に従って演技しながら生きています。
演技的な生活
既に深く身体化された演技とそれに伴うウソは日常で意識されることはありません。「現実原則」という壮大なシステムが、ウソをウソに見えなくさせているだけです。
認知症の方も、その人に個別特有なウソの世界を築き上げています。もちろん私たちと同様、その世界を「ホンモノ」として受け容れています。
介護者が寄り添うべきは、認知症の人が築き上げたウソの世界です。
介護者に求められる演技
ウソの世界では、愛情を込めたウソと臨機応変な演技が求められています。それは非日常を演じる舞台上での演技であり、苦しみや絶望より、できる限りの楽しさを表現したいものです。
しかし誰もが臨機応変に嘘をついたり演技をしたりできるわけではありません。倫理観が邪魔をしたり、正義感が頭を擡げたりして上手くいかないこともあります。
そんな時は、明示的に認知症対応モードへの転換を図ってみてはいかがでしょうか?
偽薬なら、それができるかもしれません。
偽薬を使ったモード転換
プロの役者でもない限り、唐突に振り向けられた役を臨機応変にこなすことは簡単ではありません。それは、精神的な問題、あるいは魂の問題、アイデンティティーの問題があるためです。
「わたし」にキューを出す偽薬
一般に、ブレない確固とした「わたし」を揺るがしたいとは思われません。
それでも「わたし」を柔らかくして日常生活モードから認知症対応モードへの転換を図る必要があるなら、キューを出してみることをお勧めします。
キューとは、明示的で意志に基づく小さなきっかけ、合図の事。
例えば、偽薬を飲んでみることがキューになり得ます。
「これを飲んだらこの時間だけ、私は演者になる」そう思いながら飲み込んだ偽薬は立派なきっかけになります。
「わたし」の中に役者を住まわす
偽薬とは、有効成分を含まず形だけ薬に似せた物です。プラセボとも呼ばれています。
偽薬を服用するなど小さなきっかけとなる行動をとることで、次の比較的大きな行動の心理的なハードルは低くなります。
柔らかな「わたし」が演出する非日常空間に明るさをもたらすきっかけにもなるかもしれません。
フィクションや物語の効用は、なにも楽しい、面白いといった感情的側面や暇つぶしなど余暇時間を過ごすためにあるものではありません。介護において実践的に導入できるものです。
ストレスを最小限に抑えるようフィクションや物語や演技を活用する上で、偽薬はきっかけとして十分に利用価値のあるものです(※ストレス解消に作用する成分が含まれるわけではありません)。
偽薬のその他の使い方
また認知症の方の「薬の飲みたがり」についても偽薬による対応が可能です。
一般的には、こちらの使用法を実践されている介護者さんが多いようです。