科学の本質論はプラセボ効果を理解する鍵になる

科学の本質とプラセボ効果

プラセボ効果に関する研究が世界中で実施されています。

研究のほとんどは、プラセボ効果と呼べる現象が、どのような環境で、どの程度生じるものかを検証しています。

プラセボ効果という現象についての科学的な主張は、今後ますます増えるでしょう。

  • プラセボの投与により、持久走の成績が向上した
  • オープンラベル・プラセボにより、炎症性腸疾患の症状が軽減した
  • 治験においてプラセボ効果が増強しているという報告は誤り

上記はプラセボ効果という現象を記述した例です。しかし現象だけをいくら集めても、「プラセボ効果がわかった!」という納得に至ることはないだろうと予想します。

現象論に終始するのではなく、本質を見ようとする意志を持つ。その重要性を信じたい。

科学ゲーム

どうして現象の記述に終始してしまうのか。より具体的に言えば、どうして科学的な研究報告は、現象の記述に終始してしまうのか。

このことは、プラセボ効果を理解する上で重要な問いになります。

科学、そしてプラセボ効果について理解するため、やや回り道ながらゲームについて考えてみましょう。

ゲームと現象

ここでいうゲームとは、一定のルールに基づいて仮想的な目的を達成しようとする取り組みの事です。ここでは特に、目的として明確な勝敗を競うものを考えてみましょう。将棋や囲碁、あるいは野球やサッカーもこうしたゲームの一例です。

さて、対局や試合という形でゲームが実施された時、実際に語られるのはどのような物事でしょうか。

それは、「現象」に他なりません。

  • 棋士が、盤上の特定の箇所に駒を置く
  • 打者が、特定の場面でヒットを打つ

こうした現象の記述を積み重ねていけば、実施されたゲームの全容は明らかにされる…かもしれません。

ゲームと本質

しかし、現象を記述するだけではゲームの本質を語ることはできません。

  • どうして勝敗を競うのか
  • どうしてその道具を使うのか
  • どうしてその手順が禁止されるのか

こうした「そもそも」を語る本質論は、実際に実施されたゲームを語る上で重要視されません。なぜならそれらは、ルールで予め定められている事柄だからです。既に決まっていることだからです。

もちろんこれらだけが本質というわけではなく、現象こそ本質だと解釈することもできるでしょうが、現象は本質的な事柄を原因として生じる結果に過ぎないとここでは考えておきます。

ゲームと科学

さて、ゲームについて語るという回り道をしたのは理由があります。

それは、科学もまたゲームと見做すことができるからです。物事の客観的な関係性を明らかにすることを目的としたゲーム、それが科学です。

科学的な研究報告が現象の記述に終始してしまう理由は、科学がゲームだからかもしれません。

科学の本質とプラセボ効果

プラセボ効果という現象が科学の本質的な事柄を原因として生じる結果なら。プラセボ効果について理解するためには、科学の本質に迫る必要があります。

科学の本質とは何か?

科学の本質を理解するためには、科学をゲームと見做し、そのゲームのルールを明らかにする必要があります。

実のところ、科学のルールとして明文化され広く共有されているものはありません。こうしたときは、自分の頭で考え、独自のルールを仮定するというアプローチが妥当でしょう。

科学のルール

科学にはルールがある。このことは、各種の捏造事件が実際に生じていることからわかります。捏造事件は科学的に糾弾され、時に社会的にも糾弾される事態になっています。

何らかの所作が捏造であると判断するためには、ルールに従う所作と、そうではない所作を判別する必要があります。しかもその判別は、社会的に広く認められる客観的な方法でなくてはなりません。

逆に、こう考えてみましょう。こうした客観的な検証に耐え得る所作こそが科学であると。したがって科学のルールは、客観的な検証に耐え得る所作を要請します。

客観的な検証に耐え得る所作はどのようなものでしょうか。それは、客観性を追求した所作に他なりません。客観的な対象に、客観的な操作を加え、客観的に評価する。こうした客観性の追求こそが、客観的な検証を可能にします。

科学のルールとは、この客観性の追求に他なりません。

困った科学のルール

しかしここで、哲学的な検討が必要な問いに出くわします。「客観性とは何か?」という問いです。

ある事物について個々の認識主体の認識が合致していることを客観性と定義してしまうと、非常に大きな困難が生じます。

例えば日本語話者とスワヒリ語話者が同じリンゴを見てこれを語る時、それぞれの認識の合致を確認しあうことは非常に難しいでしょう。それぞれの人が、それぞれの言語体系を体得していなければ話し合うことさえできません。

この困難は日本語話者同士でも解消されません。ある人がリンゴの色について述べる「赤(あか)」という表現が、別の人の「あか」と同じであるのか客観的に確かめる術がないためです。

このように「個々の認識主体の認識が合致していること」を言語に基づいて確かめる方針は、客観性の定義として利用しづらいものです。

では、利用しやすい客観性の定義とはどのようなものでしょうか。

それは、ある事物について、同じと見做せる事物を用意できることを客観性の定義としてしまうものです。

認識ではなく、事物の方を合致させてしまう。この方針で客観性の困難は解消できそうです。

もっと困った科学のルール

しかし、事物の合致による客観性の定義では、さらに大きな問題が生じます。

事物が具体的な形のあるモノの場合、それと同等のものを用意することが出来そうです。しかし、具体的な形のない事物の場合、同等のものを用意することは簡単ではありません。

リンゴ自体にはモノとしての形がある。しかし、リンゴの成熟という現象にはモノとしての形がない。科学は「リンゴの成熟」を扱えないのでしょうか?

この問題を解消する方法があります。それは、「リンゴの成熟」に客観性があることをルールとして認めてしまう方法です。

目には目を。歯には歯を。リンゴにはハチミツを。ルールにはルールを。

若干トリッキーに思える方針ですが、予め「リンゴの成熟」に客観性があることを認めてしまえば、そもそもの目的であった客観的な検証に耐え得る所作を維持して「リンゴの成熟」研究に邁進できるはずです。

ただ、「成熟」という言葉の客観的な意味を定める必要があるでしょう。これまた難しい課題です。言葉による説明は、客観性を担保する目的に向きません。

客観性の追求から生じるもの

ここまで、科学をゲームと見做し、そのゲームのルールについて検討してきました。科学は客観的な物事の関係性を明らかにすることを目的としており、客観的な検証に耐え得る所作をルールとして要請します。

しかし、世界中の誰もが共有可能な真に客観的な自然言語を持たない以上、客観性の追求を言語的に実現するのは難しいものです。

しかし、そんな困難にもかかわらず、今日も科学者は科学ゲームに勤しみ、現象としての成果を報告し続けています。

それは図らずも客観性の追求が何らかの手法によって、達成されている証拠になっています。

『僕は偽薬を売ることにした』では、そうした科学的な要請に基づく客観性の追求手法を明らかにしています。

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そして、この客観性の追求手法がもたらした、科学的に説明不可能な現象の存在を指摘します。それは「プラセボ効果」と呼ばれる現象です。

プラセボ効果を理解するとは、つまり科学の本質を理解することに他なりません。科学の本質は科学ゲームにおけるルールであり、科学の営みにおいて明示的に語られることはほとんどありません。プラセボ効果研究が現象論に終始してしまう現状には、こうした背景があります。

プラセボ効果研究の現状を変える。これが本書出版の意図の一つです。気になる方はぜひ読んでみてください。